効率性/生産性/効果性

前回のブログで1ヶ月間毎日10キロ走ることを宣言しましたが
15日間今のところ続いております。

朝6時から仕事があるときには3時に起きて走りますし、
雨の日もなんとかして走りますし、
風を引いて熱があるときはさすがに走れませんでしたが10キロ歩きました。

残り半月まだ残っていますが
この2週間ちょっとで私が得たことは
時間の生産性はまだまだ高められるという気づきです。

10キロ走るのに45分−60分、準備運動、整理運動、シャワーで30分で
毎日90分はこのランニングに時間を使います。

24時間のうちの1.5時間ですが、どこにこの時間を確保するかを毎日一生懸命考えますし、
今の仕事量を出来る限り早く終わらせたいという意識が以前より強くなりました。

最近本屋に行くと心なしか「生産性」をテーマにした本が売れているように感じるようになったのですが
2015年の日本の労働生産性は先進主要国の中で最下位で
アメリカの約半分でした。
(日本の市場やビジネスモデルの構造、貨幣価値など一概に日本の生産性が国際社会において低いとは言えないですが、まだ生産性があげられるはずだという立場にここでは立ちます。)

努力を美徳とする文化があったり
意志決定のスピードが遅かったり
生産性が悪い原因は色々あるでしょうが

日本人の生産性が低い最も大きな要因は
「生産性を上げる動機をもつ必要性がないからだ」とある方が言っていました。

時間=賃金で終身雇用制が採用されていると生産性を上げる理由が特に持ちにくいです。
失業率で言うと
労働生産性の高いと言われる北欧諸国の失業率は日本の3倍弱ありました。

どのような理由で失業しているのか分かりませんが、
派遣社員や非正規雇用を外国よりもうまく活用できていないように感じます。

私自身、毎日10キロ走ることを実施していくことで、生産性を上げる工夫や能力が身についています。
要はそれまで「どうやったら生産性が上がるのか?」についてあまり考えていなかったということです。

極論、生産性上げていかないとクビになるという状況であれば必死に生産性を上げる思考が働くと思います。

そうすると、どうやったら常に生産性を考えて仕事できるようになるのか?ということですが
「生産性をあげないといけない」状況をどうやったら創れるのか?という疑問文の方が私の場合しっくりきました笑

最小の努力で最大の成果をどうやって上げるのか?
をテーマにする2017年にします。

約束の尊重

すごい会議では
「約束を守る」ことと「約束を尊重する」ことを区別しています。

約束を守ることと尊重することにはどんな違いがあるでしょうか?

どすえは現在5人の会社ですが先輩たちは怒ることがほとんどありません。
なにかやらかしても
「何を学んだか?」
「次からどうするか?」
と2つの質問をされるだけです。

ただ、先輩や社長がキレるのは
・言っていることとやっていることが違う時
・約束を尊重できていない時
・全く同じミスを繰り返した時

の3パターンです。

すごい会議ではクライアントである会社で
何をするかというと
単に会議の司会をしているのではなく
約束を尊重する文化と
言い訳をしない文化を短期間で創り上げるということをやります。

にも関わらず
それを創り上げる我々が
約束を尊重していなかったり、
言い訳をしていたら真の価値を提供することはできません。

組織において約束を尊重しないと何が起きるか?

約束が尊重されないことと言い訳をすることは私の中で同義です。

決めたことが守られないとすると
そこには決めたことを守れなかった理由が何かしら存在します。
これが言い訳に他なりません。

約束を守れないと分かった時に
約束を尊重している人であればどんな言動が可能か?
遅刻しそうなときに約束の時間の5分前に遅刻します!ということは私が言うには
約束を尊重できていません。
おそらくもっと早くわかっていたはずだからです。

1つ約束を破ってもいい事例ができると
人は約束を破っても許される理由を探し始めます。

だからどすえでは約束への責任が非常に重いです。
自分の言動に責任をもたなければすごい会議はやっていけません。

とまぁ色々と書いてきましたが
なぜこんなに書いているのかというと
先日どすえのミーティングに10秒ほど私が遅刻したからです。

恥ずかしながら私自身小学生のころから遅刻魔でした。
中学時代はどうやったら遅刻がバレずに授業に入れるか?ということを考え
先生にばれない学校へ入る道、
先生に見つからないように教室までのルートを見つけ出し
教室に着いたら廊下で授業に必要な最低限度の荷物を取り出し、
先生が黒板を向いている隙に教室にソーッと忍び込み、隠れながら
自分の席にたどり着き、何食わぬ顔で「最初からいましたけど?」と授業を受けていましたし

高校時代は
遅刻し過ぎで3者面談までセッティングされました。

大学時代も人を待っている時間がもったいないと考え、
約束の時間ギリギリに到着するように予定を立てていました。

そんな私は会社に入ってから何度か約束を尊重できていない時があり、
今回も約束の時間に遅れてしまいました。

学生時代社会人と接する機会が何度かありましたが
約束の時間に間に合わない社会人や、
期日を遅れる社会人はたくさんいました。

組織において
約束を尊重する、約束を守る。
この2つのことは簡単なようで非常に難しい永遠のテーマだと思います。

私自身が約束に対する接し方を改めなければなりません。
今までは「約束は守らなければいけないもの」とある種の義務感のように考えていましたが
今回をきっかけに
「クライアントにすごい会議を納品する者として、信頼される人間であるために約束を守る」という関わり方に変わります。

すごい会議という仕事をしている以上、
公私共にどんな約束も尊重する、というのが私の仕事です。

という戒めのために今回のブログを書かせてもらいました。
(ちなみに遅刻の解決策としてはお店で1番うるさい目覚まし時計買ったのと、戒めとして1ヶ月間毎日10km走ります)
読んでくださってありがとうございます。

教育の定義

「教育」とは何か?

Teachの語源は「明らかにする」「指し示す」で
教えるという漢字の成り立ちは左側が
老人と子供を意味し、右側の「のぶん」と呼ばれる部首は、「手で持った棒で何かを叩く」ことを意味します。

教えるということは
知らない状態、分からない状態から知る、分かるという状態にするように働きかけることだと認識しています。

かなりパワフルなコミュニケーションです。

一方で育むという漢字は「女性が子供を産む象形」から成り立っているみたいです。

教え、育むとはどんな状態を指すのか、
英語のeducation の語源も調べました。

educatioというラテン語に由来していて
意味は「動植物の生命を引き出し、それを飼育・栽培する」ことみたいです。

さらにeducation は
大きくするという意味のeducareと
引き出すという意味のeducereの2つの動詞に派生するみたいです。

内発的な成長と
外部からの引き出すというアプローチの二重構造からきているみたいで

教育というものも

教えることは外部からのアプローチですが
育つというのは内発的な成長を意味しているように気付きました。

要は
外部からの「教える」というパワフルなコミュニケーションとその人自身が自らの意思と力を「引き出される」こととの絶妙なバランスによって
成立するものが教育であると解釈しました。

日本の学校教育では
教えることに重点が置かれていたみたいですが、近年は引き出すことに注目が集まっているみたいです。

広島県ではそのような取組が積極的になされており、先日広島県の因島高校ですごい会議のセッションをしてきました。

様々な取組を高校をあげてチャレンジされていて、校長先生も新しいものをどんどん取り入れようというスタンスで本当に魅力的な高校でした。
生徒と先生の距離も近く、高校生に戻りたいなんてことも思いました笑

思えば、学生時代を振り返って、教わることはもちろんですが
いい先生と認識している先生には自分の持っている何かの能力が引き出された経験がありました。
それは学力の向上ではなく、新しい習慣であり、新鮮な思考が身についたなとはっきり言える経験でした。

教え、育むこと。
教え、引き出すこと。
その効果的なバランスとは何か?
教育を通して何を身につけるのか?
その答えを暫く考えたいなぁ〜なんて考えた広島への出張でした。

感情を鍛える

あなたは今日1日どんな感情の変化をしましたか?

感情に素直になる、ということをある機会をきっかけに最近意識しています。

自分が今どんな感情なのか?
と自分に聞くと、
不思議なことに意外と分からないんです。

考えたことないからなのか
自分に興味がないのか
感情がないのか分かりませんが
とにかく分からないんです笑

人は感情的な生き物だとよく言いますが
人は感情的な生き物にも関わらず、感情を押し殺して生きていると思います。

みんなが可愛いと言っているものに対して
ダサい!と言うことはなかなかできないですし、

あの先輩なんかキモくないですか?なんて思ってたとしてもなかなか言えないです。

協調性を重んじる日本には実は言論の自由はないかもしれないですね笑

要は真に感情的に生きていると問題がたくさん起きます。

ただ、いろんな面白いことを世の中に起こしたりする人や何かを極める人とそうでない人の違いは感情に敏感かどうかなのではないか?
と最近思います。

広告のスペシャリストは
「、」(コンマ)の場所をミリ単位で調整するみたいです。
私からすると、どうでもいいと思ってしまうし、おそらくミリ単位で動いていても気が付かないです。
それなのに専門家の方はコンマの位置に違和感を抱くんです。

「物事に違和感を持てるかどうか?」
そこまで感覚を研ぎ澄まし、その感覚から生じる感情の変化に気付き、それを言動に表すことができるかどうか?
こそが本物を創る人とそうでない人の違いなのではないかと思ってならないです。

この前ある学生と社会人が参加する講演会に行ったのですが
そこでは「世のため、人のために生きるべきだ」というような空気を感じて私自身が気持ちが悪いなと思ってしまいました。
そして、自分が何に気持ちが悪いと思ったのか?をずっと考えたのですがよくわからないんです。
何に違和感をもって、何が自分を気持ち悪くさせたのか?
意外とふとした感覚を言語化することはできないものですよね、という会話を先輩にしたところ

「俺らの仕事はあらゆるものを言語化する仕事なんだから、何に違和感をもったのか言語化することから逃げるな。」
と言われ
しばらくずっと考えました。

私のいまのところの仮説(いまのところの暫定の答え)は

◯自分の意思なしに人の意見が正しいと考える人を見たこと
◯唯一正しい答えはないのに、全体に対してその正しさを押し付けようとしていた空気
に対して違和感をもっていたんじゃないかなということです。

この言語化の過程を通して気づいたことは

私自身学生時代にカンボジアへの学校建設をしていく中で
本当にカンボジアのために動いている人と
自分のために動いている人の違いをまじまじと感じた経験があること

自分自身が人のために生き続けてしんどくなった経験があったからこそここに違和感を覚えたんじゃないかなということです。

私がおもうに
人が違和感をもったり、敏感になるということは
それに違和感をもつ・敏感になるそれなりの経験があるからこそだと思うのです。

経験していないこと、考えていないことには感情は反応しません。

そうすると、どのようにすればその感度を高めることができるのか?
という疑問文が頭に浮かびますが、

いまのところ
●感情に素直になって生きてみる。
嫌なことは嫌だと言い、違和感を口に出し、それを言語化する習慣を身につける。

●より多くの本物に触れてみる。
音楽や芸術、ダンスなどその道を極めつくしている人や物に触れてみてその違いを知る。

●自分の尊敬している人たちがどこにアンテナを張っていて、なにに気づくのか?をひたすら観察する。

くらいを思い付きました、
他にアイデアがあればぜひ教えてください!