人脈

先月、お金関係でトラブルがあり、資金繰りに困る事態が発生しました。

Facebookで
「困っています!お仕事をください!」という旨の投稿をしたところ

投稿から3時間で650万円のお仕事が決まりました。

23名の社長から
メッセージや電話を頂き、
「こういうこと頼める?」
「こういうセミナーしてもらえる?」
「大丈夫?」
「こういう形であれば助けられるよ」

などの言葉を頂きました。

なんかもう世界に申し訳なくなる気持ちとともに
あらゆる感謝の気持ちが溢れ出てきました。

クラウドファンディングを私は2回したことがあり、
1回目は200万円、2回目は218万円の資金を色んな方々に出資していただき
今回、Facebook経由で650万円の資金を頂きました。

結局、クラウドファンディングも今回の件も、信頼残高をいかに使うか?
という話だと個人的に捉えています。

私は
「真に安定した人生を送りたい。」と大学時代に考えました。

私が思う、「真の安定」とは
決して終身雇用の安定した固定給の会社で働くことではなく、

所属する会社が潰れても
日本の景気がめちゃくちゃ悪くなっても、
何かの事故に巻き込まれ、急にお金が必要になっても
大切な人が突然いなくなっても
自分自身困窮しても
楽しく豊かに生きていける状態

を安定だと思っています。

だからこそ
「自分自身の名前で仕事がしたい」と思い
個人事業で働く意思決定をしましたし、

こうしてブログを書いたりして自分自身の価値をいかにあげるか?
ということを日頃意識しています。

稼いだお金は自己投資だ!と
いろんなセミナーや講座に使っています。

自分自身いろんな会社のお手伝いをやりつつ、
自分自身がクライアント側として
コーチングを受けたり
カウンセリングを受けたり
コンサルティングを受けたりしています。

自分自身を商品として商売をしているので
自分自身が成長し続けないと商品価値がなくなる。
という不安といつも付き合っています。

「石田一眞」と付き合っている価値を感じてもらえるのか?
にものすごく気を使ってこの3年間お仕事をしてきました。

今回、お金に困って
Facebookで不特定多数の人に助けを求めて
いろんな方が気にかけてくださって
いろんなことを考えました。

仕事をやっていると

「人脈」という言葉をよく聞きます。

人脈とは人と人の繋がりを指すので
人脈が「深い」とか「大きい」とかではなく、「広い」「狭い」という形容詞が使われます。

人脈とは繋がりの広さを言うので
より多くの人と繋がるかどうか?の指標としてみられていますが

豊かな人生を送るためには
「広さ」ではなく「深さ」のほうが重要だと思います。

そうすると
どれだけ深く人と繋がっているか?はいかにして測れるか?という話になります。

人脈だけで言うなら、
その人と連絡が取れたり、紹介ができたりする、会おうと思ったら会える。というレベルで十分繋がっていると思います。

では、「深さ」は何をもって判断できるのでしょうか?

今回のFacebookの記事の一件で思い出したのは

アメリカのホームレスの話です。
ガソリンが切れて困窮していた人に
あるホームレスが全財産の2000円を使ってガソリンを寄付してくれたそうです。
運転手はお金をもっておらず、何も対価を支払えませんでしたが
無事に家に帰れました。

後日、運転手がホームレスに恩返しをしようと
その人の社会復帰のためのクラウドファンディングを呼びかけると4000万円が集まった。
という話です。

ふつうに美談なわけですが
ポイントはこのホームレスがまともに会ったことのないような人に対して
有り金を全部叩いて手助けしたことです。

人とのつながりの深さとは
「その人のお困りごとに対して何の見返りも求めずに価値を提供してきた回数」だと思いました。

私の発見は
繋がりの深さに関しては、
その人のことを特に知らなくても繋がりの深さは深まる。ということです。

例えば、
電車でお年寄りの方に席を譲っている人がいたとします。

その人が改札でお金が足りずに立ち往生した場合
私はおそらくお金を渡すと思います。

その人が、全くの知らない人だった場合は
なにも気にせず素通りするかもしれません。というか多分素通りします。
(薄情者ですみません)

徳を積む。
といった言葉を聞いたりしますが

まさに徳を積む行為は
人との繋がりの深さを深める行為だなと思います。

人脈を広げる行為よりも
人との繋がりを深めることを大切にしよう。
と心に決めた出来事でした。

私は今回お仕事をくれた方々には頭が上がりません。

なんの見返りも期待せずに声かけしてくださったみなさん
本当にありがとうございました。

もっともっと徳を積んでいきます。

やりたいこと/ありたい姿

「やりたいことは何か?」
「何になりたいか?」
「将来の夢は?」

と言った質問を小さい頃からよく聞いていましたが
ずっと違和感がありました。

というのも

「やりたいことは何か?」
→やりたいことなんて食べたいものが変わるように、その時その時で変わるものだろう。
何もやりたくない気分の時もあるし、、

「何になりたいか?」
→なるものなんてあくまで手段なわけで。「プロ野球選手になりたい!」「ケーキ屋さんになりたい!」「医者になりたい!」よりも
「プロ野球選手になって何したい?」「ケーキ屋さんになってどうしたい?」「医者になってどうしたい?」の質問のほうが本質な気がしてならなかった。

「将来の夢は?」
→昔から1年以上先のことを考えられない人間でした。3ヶ月以内のゴールを追い求めるのがものすごく好きでエネルギーも上がるし、大量行動もできました。

ってな具合で
将来的なことは考えられない性分でした。

ところが小学生の頃から常に周りに問われます。

将来は何になりたいの?
夢は何?

今が楽しければ最高!
って感じで鼻水垂らしながら生きてきた私にとって
これらの質問は非常に困りました。

最近思うのは
考える価値ある問いは
何をやりたいか?
何になりたいか?
よりも
私は誰として生きたいのか?
自分はどうありたいのか?
のほうかなということです。

あなたは何者ですか?

という問いです。

私は
旅人として生きたい。
というものがあります。

人との出会いをきっかけに
予想にもしなかった方向に話が進んでいくこと。

いろんな人の価値観に触れて自分の考えがアップデートされたり、
世界の偉大さに驚きハッとする瞬間がたまらなく好きです。

旅人として生きる。
と決めると
仕事をしていようが、旅行をしていようが、何かイベントを企画していようがどんな時だって人生楽しめます。

何をやるか?というよりも
どういうスタンスで取り組むか?
が確立されていくと
ある程度なんだって楽しいです。

お仕事も
人との出会いが好きなので常に毎日新しい人と会っています。

そして、ひょんなことから仕事が始まります。

そんな働き方がものすごく性にあっています。

また、旅人と同じくらい
少年としても生きたいなぁと思います。

少年は疲弊しません。
少年は目を輝かせています。
少年は新しいものにどんどん飛びつきます。
少年は好奇心旺盛です。

(以上、私の少年のイメージ笑)

何をやりたいのか?
どうなりたいのか?
という質問につかれたとき、

私は誰なのか?
と向き合ってみてもおもしろいなぁと思います。

私は10年以上
何になりたいか?何がやりたいか?という問いに苦しめられましたが

今は
どうありたいのか?
という問いと上手に付き合えている気がしています。

グルーヴ

1月にコーラスをすることになり、
実は最近必死にコーラスの練習をしています。

その時に先生に

「音程は合ってるんだけど、グルーヴがないですね」と言われました。

「???」

グルーヴという言葉が分かりませんでしたw

グルーヴ:ジャズやロックなどの音楽で、「乗り」のことをいう。調子やリズムにうまく合うこと。(コトバンク)

先生が言うには「うねり」みたいです。

そのあと、うねりを意識して歌ってみると
歌っている気持ち良さや聞いている楽しさみたいなものが全く違うものになりました。

グルーヴを意識すると、コーラスの楽しさが倍増しました。

ふとレッスンが終わった後に

「音程は合ってるけど、うねりがない」という言葉がずっと頭に残っていて

色んな場面でこのことは当てはまるなぁと思いました。

「営業で話すべきことは話してるんだけど、うねりがない」
「会議で言ってることはわかるんだけど、うねりがない」
「人間関係で一緒にいて楽しいんだけど、うねりがない」
「仕事しっかりこなすんだけど、うねりがない」

こんな感じです。

みなさん、思い当たる節ありますか?

これらで言っている「うねり」とは何なんでしょう?

グルーヴとは「調子やリズムにうまく合うこと」という意味合いがありますが
うねりとはその場に合わせてカスタマイズできているかどうか?
ということなのだと解釈しました。

音楽とは生き物であり、一緒に歌う人の調子や歌う場所の広さ、メンバーの立ち位置によって毎回毎回完成度が異なります。

これと同じで、
営業も会議も人間関係も仕事もすべてナマモノだと思います。

場に合わせているか?が「うねり」を生み出す重要な要素なのではないかなと。

例えば、年下は年上に敬語を使うのが普通ですが
飲みの場や、ふざけている時に敢えてタメ口を使う時があります。
「うるさい、おじさん」
「やかましいわ!」
「いやいや、なんでやねん」
こんなフレーズです。

普通に使ったら年上でタメ口で「なめてんのか?」ということになりますが
場によっては言われた側も嫌な気持ちはしないし、
場が盛り上がったりします。

これはうねりがあるんじゃないかなと。

よくコーチングをする時や、会議を仕切る時に
「相手と一緒にいるか?」とすごい会議内ではフィードバックし合います。

相手と一緒にいない状態:
タイムマネジメントやアジェンダの進行に意識がいき、次々と仕切って会議をファシリテートしていくこと

相手と一緒にいる状態:
相手がなにを感じているのか?なにを考えているのか?に意識を向け、相手の状態に合わせて流れを合わせていくこと

こんな違いです。

セールスでも一緒で
相手と一緒にいるかどうか?
で成約率が大きく変わった体験があります。

相手と一緒にいるほうがうねりが起きやすくなります。

「音程は合ってるんだけど、うねりがない」

この状態では成果も出ないんじゃないかな?と思います。

自分のビジネスやパフォーマンスにおける
うねりは何なのか?

そんなことを考えたコーラスのレッスン帰りでした。

違和感

違和感を抱く力という話で
先日ある社長と話が盛り上がりました。

違和感「しっくりこないこと」

を言います。

あなたはどんな時に違和感を感じますか?

・友達と話をしていて、「あれ、なんかいつもと違うなぁ」
・会議をしていて、よし!これでいこう!と言ってはいるものの「なんかよくわからないけど、うまくいかなさそうな感じがする」
・人の話を聞いていて、言ってることは分かるんだけど、なんかしっくりこない

こんな経験ありませんか?

こうした違和感はなぜ感じるのか?
ということですが

しっくりきている状態を体験していないと違和感に気づかないはずです。

しっくりきている。という状態を知っているからこそ、

しっくりきて「いない」ときに「あれ、何か違うぞ」という感覚が生じます。

友達が本当に嬉しそうに笑っている姿を知っているからこそ、
そうでない時に「あれ、何かあったのかな」と気づけます。

ビジネスにおいても、
すごい会議の先輩と話をしていて
「あ、これはうまくいくな!」って思うときと
「あ、これはたぶんうまくいかないな」って思うときってあるよな。

という話になりました。

出てきたものは
・会議室のテーブルの上が汚いと成果が出なさそうな匂いがする
・メンバーから勝手に相談の連絡がくるときうまくいきそうな感じがする
・立候補がだれも出ないときうまくいかなさそうな感じがする
・社長が話をしているとき下むいている人がいるとうまくいかなさそうな感じがする
・参加者と全然目が合わないとうまくいかなさそう
・目標数値をすぐ言えていないとうまくいかなさそう
・実は、、と本音を話し始める人が出てくるとうまくいきそうな感じがする

こんな感じです。

当たり前の話かもしれませんが

このうまくいきそう、うまくいかなさそう、に気付く人と気付かない人がいます。
(私自身も先輩と話していて、あ!そんなとこ気にしてるんだ!と思った部分がありました)

ハインリッヒの法則というものがあります。

Wikiによると、
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ハインリッヒの法則は、労働災害における経験則の一つである。
1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの
ーーーーーーーーーーーーーーーー

IMG_0854
だそうです。

こちらは労働災害についての法則ですが
ビジネスにおいても同じことが言えると思いました。

退職者が出る。
大損害が出る。
クレームが出る。
横領が起きる。
契約にならない。

などいろんなリスクが「1つの重大な事故」だとすると
その手前には「29の軽微な事故」がおきているはずで、
さらにその手前には「300の異常」が存在しているはずです。

ところが多くの場合、
この300の異常を「大したことないこと」としてスルーしていますし、

29の軽微な事故も「まぁよくあること」と軽視しています。

大きな成果を出す人は

29の軽微な事故の時点で過剰に対応して物事を解決するし、
300の異常にもすぐ気付いてなんらかの変化を起こします。

すごい会議の先輩はたまに、

「お前、今やめようと思ってるだろ」とか
「奥さんとうまくいってないでしょ」とか
「本気でやってないよね」というよな

会話をします。

これはおそらく
300の異常に気付いて、29の軽微な事故や1の重大な事故を推測し、
早めに発言しているのだなと思います。

あるホテル会社のマネージャー陣が
ホテルの会議室で会議していた時、
その部屋にゴミが1つ落ちていました。

ところがマネージャー陣がだれも気付かず会議が始まりました。

そしたら社長がいきなり
「あそこにゴミが落ちているが、だれも気付かずだれも拾っていない。
ここに落ちているってことは
ホテル中のどこそこにゴミが落ちている可能性があるし、
そういった教育ができていない可能性がある。
会議なんてしてる場合じゃない。いまからホテル中ゴミが落ちていないかみんなで回ってこい!」
と言い始めました。

私にとっては
お客様のいない会議室で小さなゴミが1つ落ちていたことなんて
300の異常、もしくは29の軽微な事故程度のもので
「大したことのないこと」と思っていましたが

社長からすると
重大な事故を引き起こす異常だったわけです。

そうするといかにこの300の異常に気付けて
手を打てるのか?
が成果を出しリスクを回避する方法です。

ではどのようにすれば
300の異常に気付き、違和感を抱くことができるのでしょうか?

ここについては今自分の中でまとめ中なので
また改めてブログ書こうと思います。

自責とは

自己啓発書や組織の行動指針みたいなところでよく目にする言葉が

自責・他責という言葉です。
自分ごととして考える、当事者意識をもつというキーワードもあります。

ーーーーーーーーーーーーーー
マネージャー「お前、そばで見てたのに何も動かなかったの?」
部下「はい、、」
マネージャー「お前さ、もっと物事を自分ごととして考えろよ」
部下「はい、すみませんでした。」
ーーーーーーーーーーーーーー

こんな会話が繰り広げられている組織があったとします。

私は思うわけです。

「このマネージャー、自分ごととして考えてないやんけ」

部下の判断ミスや行動不足を叱責し、怒っているわけですが

”自分ごととして捉える”としたら
「そういうリスクを考えられていなかった自分が甘かった」
「自分の育成能力を過信していた。もっと丁寧に教えていかなければ」
「どうやったら次同じ問題が起きないだろうか?」
みたいな思考になるはずです。

にも関わらず、
「もっと自分ごととして考えろ!」というのは

私にとっては
太ってる人に「君、もっと痩せた方がいいよ」と言われるようなもんです。

「できてないやつに言われたくねえよ」が起きます。

「自分に責任持てよ。」と会話がなされているチームには
本当の意味で責任取っている人はいない可能性すらあります。

一方で
全ての問題の責任を自分だと仮定します。

アフリカの飢餓も
地震による被災も
不景気による業績の悪化も
社員のAさんがやめたのも
彼女が機嫌が悪いことも
全部僕が悪いんだ。

こんなの辛すぎませんか?
私だったら耐えられません。

では、
アフリカの飢餓なんて知ったこっちゃないし、
社員のAさんがやめたのも私は一切関係ないし、
業績の低迷も私には関係ないことだ。

こんな風に思っていると
なんか無責任すぎる気がします。

ある女友達と話をしていると、彼氏が自分の嫌なことをしてくるようでした。
「やめて」と言ってもなかなか直らない。
しまいには、「私が悪いのかな、、」と言い出す始末。

その女友達は「自分が悪い」というように自分に責任をもっているわけですが
話を聞いていて、「いや、それ彼氏が悪いやろw」なんて思っちゃうわけです。

ここまで考えて、

私は
「自責」の意味を全然掴めていないな。と気付きました。

「自分に責任をもつ。」この言葉とどのように付き合うのが人生をより豊かにしてくれるのでしょうか?

分からない時は語源を調べます。
責任= responsibility

response+abilityから成り立っているようです。
(反応する+〜の能力がある)

つまり、
責任とは「反応する選択肢を持っている状態」を意味しているわけです。

ここでもう1つ。
反応とは何か?という話になります。

反応=ある働きかけに応じて起こる物事の働き
と辞書にありました。

いまいちピンときません。
拒絶反応とか生理反応とかありますが、

おそらく責任に対応するrespnseの意味は

”反応”というより”対応”のほうかと思います。

反応=意図せずとも起きること
対応=意図をもって起こすこと

つまり、この違いは何かというと
例えば
あくびは反応です。
脳に酸素が足りていなかったり、脳みその働きが鈍っていると時に否応がなしに身体があくびをしてしまうわけです。
あくびをするぞ!と思ってもあくびはできません。

あくびをする時に手で口を隠すのは対応です。
口を隠さないこともできますが、「人前だし隠した方がいいだろうな」と自らの意思で選択をして口を手で覆うという行動を意図的にとるわけです。

ここまで整理すると

責任とは「外部の働きかけに対して、対応する選択肢をもっていること。そしてその選択肢を意識的に意思決定すること。」です。

要は選択なわけです。

例えば
「給料が望むレベルで手に入っていない」状況があるとします。

自責でない人は
選択肢がないわけですから
給料が低いことを自分にはどうしようもないことと考えています。
その状況を変える選択肢がないわけです。

自責の人は
選択肢があります。
どんな仕事をしたら給料が上がるだろうか?
転職したほうがいいのかな。
成長して出世していくのも面倒だし、やっぱこの給料で我慢するか。
いろんな選択肢を考えます。
その上で自分で決めます。

決めるというのは、
自分のできることを増やして価値発揮して給与を上げていくことかもしれませんし
より給与の高い会社への転職をすることかもしれませんし
*給与が低いことは諦めてそのまま働き続けることかもしれません。

自責でない人と自責の人の最後の例(*の部分)は
結局何も新しい行動に踏み切っていないので一見同じですが
いろんな選択肢があった上で、何も変化しないことを意図的に選んでいる点において違います。

アフリカの飢餓のニュースを見て、
実際にアフリカに行く人もいれば
募金をする人もいれば
何もしない人もいます。

どんな選択であれ、いろんな選択肢がある中で自分で決めている人は責任を持っているわけです。(例えそれが何もしないという結論だったとしても)

責任を持っていない人は
選択肢が「何もしない」の1つしかなくてそもそも選択するという概念がないことを言います。

自責でない人は自分で自分の人生をコントロールできず、
自責の人はどんな結果であれ、自分で自分の人生をコントロールしています。

以前、
「神戸大学社会システムイノベーションセンターの西村和雄特命教授と同志社大学経済学研究科の八木匡教授は、国内2万人に対するアンケート調査の結果、所得、学歴よりも「自己決定」が幸福感に強い影響を与えていることを明らかにしました。」

という研究結果が明らかになりました。

自責であること
自分ごととして捉えること
とはつまり、幸福感を得るために必要なことだったんです。

自分の人生に責任を持って幸福感高く生きていきます。

何でも言っていい場

飛行機事故のうち

・機長が操縦していた時
・副機長が操縦していた時

とでは
圧倒的に機長が操縦していた時の方が事故の割合は多いそうです。

うまくいく会議のポイントは何か?とよく聞かれたりするのですが
・主張すること
・何でも言っていい場をつくること
の2つは非常に大事だと思っています。

会議をするときに
「主張すること」を我々は非常に重要視します。

「〜したい」
「〜したほうがいい」
「〜を変えるべき」

このような、
正解かどうかは分からないけど、現状を打破する主張が未来を変えます。

「訪問件数が今月◯件だ」
「佐藤さんが〜と言っていた」
「僕は〜をしていない」

などいくら事実を述べても未来は変わりません。

もう1つ、主張と同時に重要視しているものに
「何でも発言していい場づくり」があります。

いくら「主張が未来を変えるんや!」と言っても
主張するたびに、何かを否定されたり、無視されたり、評価されたりしていると
主張しづらくなってしまいます。

ある営業会社で
ずっと成約率をどう上げるのか?という問題解決をしていました。

毎日みんなでロープレしよう。
相手に与えることが大事だから徹底的にギブしよう!
トップ営業マンの言っていることを全営業マンに共有しよう!

いろんな策を練るのですが一向に成約率が上がりません。

会議をしていて
「ずっと感じているものの言えていないことは何ですか?」
と聞いていくと

ある営業マンが
「おれがお客さんだったら他社の商品買います」

と言いました。

そのときの周りの会議参加者の反応はと言うと、

「いやいやそんなわけないやろw」
「え、まじ?そんな風に思ってたの?」

と言った発言内容に対するリアクションではなく、

「あ、それ言っちゃう?w」

という発言したことに対して驚きのリアクションでした。

どういうことかというと、

「おれがお客さんだったら他社の商品買う」
という意見が誰もが思っていたことだったのですが
誰1人として口にしてこなかった。ということです。

結局この会社は
営業の問題じゃなくて商品の問題ですよね。
ということになり商品そのものを見直し、
成約率も売り上げも大きく上がりました。

感じているのに
言えていないとだけで問題解決できるものもできなくなってしまうことがあります。

ただし、
それは多くの場合言いにくいことで、主張することに大きな勇気が求められることかもしれません。

機長は副機長に対して意見を言うことは容易です。
もっとこうしたほうがいい。
こういうリスクがあるよな。
それはやめたほうがいい。

そうやって事故のリスクを早めに察知して危険を回避します。

一方で
副機長が機長に対してどれだけ意見が言えるのでしょうか?

(きっと機長のことだし、何か考えがあってこうしているんだろうな)
(ベテランの機長がこんな判断ミスするわけないよな)
(お前は全然分かってない!とか怒られるかもな)

勝手にこんな風に判断して
思っていることを言えないシチュエーションがあり、
それによって事故件数が副機長が操縦している時よりも多いのかもしれません。

思っていることを言わない、ということは
シンプルに

言うよりも言わない方がいいことがあるから言わないということです。

・波風立たない
・めんどくさいことにならない
・怒られない
・否定されない
・馬鹿にされない
・自分の無能さを突きつけられない

こんないろんな相手の反応が
言わない方がいいんだ。という世界を作り上げます。

実際に私自身も
なんでも言える先輩と
思っていることを言わない先輩とがいます。

そして同じように
何でも言ってくれているな!という後輩と
こいつ思ってること言ってないだろうな。という後輩がいます。

おそらく
何でも言って大丈夫という場づくり・その人との関係性が作れていないです。

事故が起きる前に、
その関係性を作らねば!
と思った京都から宮崎への飛行機でした。

p.s.
実は今回、すごい会議のみんなで(40名ほど)京都に集まり、
サービスのクオリティ全体を見直そうという会議をしました。

その中で先輩後輩関係なくフィードバックし合ったりする場面や
言いにくいことを勇気を出してみんなが発言してました。

何でも言っていい場をつくることのメリットを心底感じた京都の会議だったので

明日からの会議でより一層
場づくりに働きかけていきます。

Rule

あなたの組織にはどんなルールがありますか?

昔から僕はルールが嫌いでした。

自由を制限されている感じがして
ものすごく窮屈な思いをしていました。

中学の時なんて
「ルールを破るオレ、かっこいい。」なんて思っていました。

そして先生に
「校則で決まってるから」と怒られることに
この上なく憤りを感じていました。

「ルールで決まっているから」

一瞬で思考を停止させる言葉です。
もう例外を認めさせず、反論を許さない決め台詞のように感じました。

ルールはなぜ存在するのでしょうか?

実は僕はなんちゃって法学部だったのですが
何かの問題解決でルールが設定されます。

飲酒運転は道路交通法ができた当時は違法でもなんでもありませんでした。
悪質な飲酒運転による事故が増えて
罰則が生まれ、
罰則が強化されていきました。

ルールは
何か問題が起きた時(起きる可能性がある時)に、
2度とその問題が起きないための解決策として制定されます。

そうするとここには自ずと2つの前提が成り立つはずです。

①ルールはある問題が起きることを防ぐものであること
②対象者はルールを守る存在であること

この2つが成り立っていないとルールを制定する意味がありません。

先日ある社長と会話していた時に
「車を運転していて、スピード違反している奴は100%全員取り締まるべきだ」
ということを話していました。

現状、高速道路や下道で
法定速度を破りスピード違反で捕まった人は何を思うでしょうか?

「ルールを破って捕まってしまった。おれが悪かった。次からは制限速度以内で走ろう。」

私は、そんなことを思うとは思えません。

きっと
「運が悪かった。今日はツイてなかった。」
と思うはずです。
(少なくとも僕だったらそう思います)

それはルールを破っても罰せられない経験があるからです。

学校の校則でも似た経験があります。

私の出身高校は宮崎のある進学校だったのですが
月に1回定期的に風紀検査というものがありました。

男子は髪が耳にかかったらアウトだし、眉を剃ったらダメだし襟に髪がかかるのもアウトでした。
女子は肩より長い髪は結ばなければならなかったし、スカートの長さも制限されていました。
ただし、みんな守るのは検査がある時だけです。
なぜならば検査がない時に破っていても特に何も言われないからです。

形骸化していて本当に意味のないことをしているなぁと高校生の時に思っていました。

会社においても同じです。

守らなくても特に何も言われないれべるのルールであればない方がいいと思います。
ルールの持つ前提(対象者はルールを守る存在であること)が壊れているからです。

すなわち、ルールとして定める以上は
ルール違反があった時に誰かから即座にフィードバックされる仕組みがないと
そもそも当初の目的であった問題解決にならないです。

行動指針なども同じです。
組織で合意されている行動指針に沿わない言動があった時に
そこについて
「あなたは今、行動指針に沿わない言動をしていますよ」
とフィードバックされていないと

行動指針の目的である組織のありたい姿の実現が遠のいてしまいかねないんじゃないかなと思います。

ルールは思考を止める可能性があります。
(何かの問題解決のために制定されているルールが、ただ単に「定められているから」という思考になり、本質を見失いかねない)

一方で、余計なことを考えなくて済むというご利益もあります。
(例外を認めず、ルールが徹底されているとルールの中でどうするか?を思考するため思考の節約になる)

あなたの所属している組織にはどんなルールがありますか?

そのルールは機能していますか?

座右の銘

「学校の先生に言われたことで今でも覚えていることは何ですか?」

という質問を知り合いの方がFacebookで以前投稿していました。

沢山の方が回答していて
しばらくその回答を見るのが楽しみになりました。

反面教師的に忘れられない言葉もあれば
人生の指針になるくらいその人の大事な価値観を形成している言葉もありました。

私の場合、なによりもまず思い出したのは
中学校の時に給食のパンで遊んでいたら

先生が怒って
「今すぐパンに謝れええええ!!!」
と怒鳴ったことです。

友達と全員で中1の時に
パンに「ごめんなさい。」と頭を下げました。

パンの話は一旦置いておいて、
わたしには小学校の先生に言われて
ずっと覚え続けている言葉があります。

それは

【天命を信じて人事を尽くす】

という言葉です。

どこかで聞いたことありますか?

日本の諺に
「人事を尽くして天命を待つ」
というものがあります。

そうです。よく知られた諺の変化系です。

元々の
人事を尽くして天命を待つ。
の意味は

できることをやりきったら、あとは結果を待つしかない。

みたいなことです。

小学校で学び、ずっと忘れず自分自身の行動の源泉になっているものが
この

天命を信じて人事を尽くす

です。

もとの諺の通りだと、

やることやって、あとは神様に頼みましょう。
というどこか他力本願的な意味合いがあります。

たしかに、やることやりきった後の話なので、もうやることはなく、それはもう結果を待つしかないことなのかもしれません。

天命を信じて人事を尽くす。
だと、
きっといい結果が待っている。
だからそのために今出来る限りの事をしよう。
とそんな意味に捉えています。

今出来ることをやりきろう。

このスタンスは
小学校で学んでから
ものすごく私を助けてくれました。

どれだけ辛いことがあっても、
天命を信じて(この辛い経験の先にはきっといいことがまっている)

人事を尽くす(だから今出来ることを精一杯やろう)

というスタンスがずっと備わっています。

ですから
中学校以降、基本的に3分以上落ち込んだことがありません。
(このスタンスのおかげで落ち込んだ人にどう接していいのか分からなくなってしまっていますが)

常に
天命を信じて人事を尽くして来たからです。

まず、
どんなことがあっても天命を信じていたので
前を向けます。

そして
人事を尽くし続けているので
前に進み続けます。

人生振り返って
この言葉で本当に自分の人生は変わったなぁと思います。

俗に言う座右の銘的なものかもしれません。

みなさんが
先生に言われて忘れられない言葉は何ですか?

コミュニケーションの使い分け

Googleには

”エビデンスは何か?”

を問う文化があるみたいで、いろんな研究調査を常日頃おこなっているみたいなのですが

Googleの調査で
「チームのパフォーマンスを高めるマネージャーの特性」
の中の最も重要な項目に
「よいコーチであること」というものがありました。

まず、
「これは仕事が増える!」と思いましたw

そして「やっぱりそうだよな。」と腹落ちしました。

【チームの結果を最大化すること】がマネージャーの役割だとすると

指示命令、アドバイスだけではチームの成果はきっと最大化しなさそうです。

チームが掛け算にならないからです。

以前、あるプロジェクトのリーダーをした時に、経験のあった僕は指示命令ばかりをしていました。
指示命令と言っても理不尽な独裁ではなく、
しっかり目的も作って自分の思いも伝えていました。

ただ、ちゃんと言ったことやってるのかな?とすっと気になるし、
全部どうしたらいいですか?と聞かれるしで
ものすごく大変でした。
目標達成したもののすごく疲れました笑

あくまで足し算のチームを経験しました。

メンバーの意見を引き出し、集合知で成果を追ったほうが楽だし効果的だなと気づかされました。

その一方で、良いコーチであるという条件がマネージャーには求められると言われますが
コーチングだけでなく
アドバイスや教えることもチームにおいては必要だとも思います。

これらをどう使い分ければいいのか?
ということがよく分からなかったのでまとめます。

コーチング:相手の中に答えがあり、質問を通して相手の価値観や考えを引き出して行動を促すこと
アドバイス:知識や経験に基づいた助言をすることにより相手の望む成果の解決策を提示すること
ティーチング:答えが決まりきっているものについて知識を転送すること

習熟度が低い人、かつ難易度が高くないことについては
ティーチングから入った方が効果的です。

何も知識も経験もない人に
「何をしたらいいと思う?」とコーチングしようとしたり
「こうなった時はこうすべき。」みたいにアドバイスしたりしても
あまり成果は上がりづらいです。
(そもそもなにも知らないし、何もしていないから)

「まずはこういう手順があって、、」
と順を追って教えたほうが

行動が生まれやすいです。
(やることが明確になるから)

ある程度習熟度が増してくると
コーチングやアドバイスによって成果が促進され始めます。

なにがうまくいったか?
なにがうまくいなかったか?
次はどうしたいのか?
1年後はどうなりたいのか?

この時はこうしたほうがいい。
これは言わないほうがいい。
こういう人にはこうしたほうがいい。

こうした質問や助言が行動変容を促し
行動の質が変わります。

ただ、
助言したほうがいいのか、質問を通して気付きを促すアプローチをしたほうがいいのか?

ここの使い分けが微妙です。

どっちのほうが効果的なのだろう?

そんな悩んでいた時に
「野村再生工場」という本を読み、
1つの観点を得ました。

野球の野村監督は
基本的には放置プレイでコーチング的アプローチをして本人の成長をサポートするそうです。

知識や経験からアドバイスもたくさんできるはずですがほとんどしないみたいです。

唯一アドバイスをする時が、選手が必死にアドバイスを求めてきた時らしいです。

本人が
「自分なりに〜が課題でこういう風に解決しようとしているけれどもなかなかうまくいかない。アドバイスをください。」
と言ってきた時はアドバイスをするそうです。

その心は、

アドバイスを本気で求めている時は
アドバイスをすると行動が変わるから。

アドバイスを求めていない時にいくら適切なアドバイスをしても行動が変わらない。

だそうです。

たしかに、
アドバイスを求めていない時のアドバイスほど要らないものはないなぁと
自分自身振り返っても思いました。

教えることやアドバイスだけだと
その範囲の中でしか本人は責任を取らなくなります。

うまくコミュニケーションを使い分けできるようになりたいです。

Volunteer

「ボランティア」

日本語にするとどんな意味になるのでしょうか?

世間的には
・奉仕活動
・社会貢献活動

みたいなイメージがあったりしますが

もともとの語源は
「自主性」「喜んで〜する」という意味みたいです。

別に
奉仕とか社会貢献とかいう意味は語源そのものにはないようです。

先日100名ほど集めてイベントを行いました。

カンボジアの村に花火を打ち上げたくて
その資金調達を目的にしたチャリティイベントです。

そもそも花火は
戦後大量に余った火薬をどうにか有効活用しようとつくられたもので平和の象徴です。

どんな時でも花火が上がっているとつい見てしまいます。
多くの人を魅了する花火を電気もガスも通っていないような村で打ち上げてみたい。
花火が打ち上がる瞬間を見たい。
(カンボジアでは何の規制もないため、日本とは比べ物にならないほど、間近で花火に着火できます。)

そんな思いで始めました。

大学時代には
カンボジアに小学校を2校建設しましたが

カンボジアを変えたい!とか
貧困国を救いたい!とか
子供たちがかわいそう!なんてことは全く思ったことがなく、

みんなでお金稼いで、カンボジアに小学校をつくるプロセスが楽しそう!と思ったから初めて、

ものすごく楽しかったから
2校目も取り組みました。

ボランティアとは
自主性であり、自ら喜んでやることなので

他人に迷惑をかけさえしなければなんでもいいと思っています。

人を笑顔にしていているのであれば
「自分のため」だろうが「モテたいから」であろうが「お金が欲しいから」であろうが
何だっていいのではないかと。

ただ、「自分のため」に動くのか「人のため」に動くのかで
いろんな違いを最近実感しています。

【自分のために動いていると】
◯短期的にダッシュできる
◯モチベーションを上げやすい
◯不確実な要素が少なく考えやすい
△自分自身の能力の範囲内で物事を考える
△諦める理由が出た時にすぐ諦めやすい
△長続きしない

【人のために動いていると】
◯人から応援されやすくなる
◯諦める理由が出てきても簡単に諦められない
◯長続きする
△自己犠牲を伴い苦しくなることがある
△見返りを期待してしまう

みたいな違いをいろんな活動をしてみて発見しました。

結局
自分のためか?人のためか?という二元論的な話ではなく

「自分のため、かつ、人のため」という行動が可能だと思うのですが

「自分のために」というエネルギーと
「人のために」というエネルギーのご利益はどちらもあるので

うまくハイブリッドに組み合わせて使っていきたいものです。